恋に効く、仏教 Vol.27
第二十七話
縁に気づく生き方
2017.02.08
いのちは一つでは存在できない。私一人では存在できない。
皆がいて私がいる。
生かされている。
よく言われる言葉ですが、
そうなんだろう、と思いつつも
深く実感することなく
私たちは日々を過ごしています。
私たちは、私としてここに立っていますが、
周りがいないとダメ、存在できないとはどういう事でしょうか?
私たちは自分の思い通り動き、
思い通りに暮らしている
個の状態でも問題ないような気がしていますが、
でも
個だけでは存在するのは難しいのです。
あなたの着ているものは何処から来たのか?
あなたの食べているものは何処から来たのか?
暮らしている部屋はどうしてそこにあるのか?
そもそもなぜそこに立てているのか?
振り返ってみると、
当たり前のように、
自分の力だけでここにいる気になっていますが、
ここにいるという時点で、
自分一人では成しえない事だとわかります。
確かに私たちは
個々に別々に存在しています。
ただ、これを複雑に
蜘蛛の巣のように
点と点を結んでいるものがあります。
結びつけることにより、
個々が個々として存在させているものがあります。
そう、
それが
縁
です。
個々にあるものを結び付け、
そこに存在させている。
自分の命は見えます。
他人の命も見えます。
そこに存在してるので見えますが、
実際には、この縁がなければ命を続けることも危ういのです。
縁は見えない いのち
目に見える命、姿かたち
そればかりに目が行きますが、
見えないいのち(縁)によって
複雑に絡まりながら、
私たちは存在しています。
目に見えないいのち(縁)によって
目に見えるいのちが生かされています。
少し難しい話になってしまいましたが、
食事をするにしても
服を着るにしても
電車に乗るにしても
米粒と私
服と私
電車と私
という物は、目に見えて個々に存在していますが、
それらが私と結びつくには、
目に見えない多くのいのち(縁)が働いています。
そして、目に見えないいのち(縁)の向こうには、
あるけれど、普段は接することのない多くの目に見えるいのち(多くの人々)が、また絡まり、
そこからさらに、広がり絡まり。
まるで蜘蛛の巣のように。
蜘蛛の巣のような網の目の
糸と糸の交わりの点の上で立っている私は、
糸がなければ、その点自体も存在しない。
どこかの点(命)がなければ、どこかの糸(縁)が切れて、どこかに影響する。
私がいて社会があり、
誰かがいて私がいる。
点の上で立つ以上、
誰かから伸びる縁のつなぎがなければ
点(私)自体存在しなくなってしまう。
縁を結ぶ
と言うけれど
普段から、
縁は結ばれている。
多くの縁で、多くの方と複雑に。
実は結ぶことではなく
その結びに気づくことが大切なのです。
結婚したい
彼女が欲しい
彼氏が欲しい
という方がみんな言います。
縁がない
縁がない
と。
でも実際には
今周りに複雑にいくらでも縁はすでに結ばれている。
その縁に気づき、
自分が存在している
生きていること自体、縁のおかげで誰かのおかげと気づく。
この気づきが大切です。
そうしていれば、
あなたと太い縁で結ばれている異性の縁にも気づくのかもしれません。
縁は見えないいのち。
姿かたちが見えるものだけ見て、
目に見えないものに
思いが至らないようでは、
結局、目に見える命とも結ばれていく事は出来ないのです。
今回は少し思想的なお話でしたが、
ドライブだって、好き勝手走っているようで、実は、車で動けば対向車もいる。対向車の動きが正常であって、はじめて自分の車が普通に走れる。
車に乗り安全に目的に着くには
多くの人に感謝感謝です。
科学的な時代となり、
目に見えないもの、わからないものが減る中、
目に見えない物への畏敬の念も減ってきています。
また、目に見えない物は存在しないと思って生きています。
縁は、目に見えない。
でも、縁がなければ私が存在できない。
無縁社会と言われますが、
あなたが、縁に気づけば今日から縁だらけの社会。
気づかなければ、
無縁社会のままなのです。
すでにあなたは一人じゃない。
みなと結ばれている。
そこに気づいて感謝し、
見ようとすれば、広く広くつながる人々にも目が行き
その中の最も大切な縁(結婚相手など)にも気づき
大切にするようになるのです。
私と皆さんがこうしてつながっているように、
縁はもう結ばれているのです。