Vol.20本道佳子マネージャー日記 本道さんのこぼれ話 ― 最期の晩餐 ―
2015.05.07
4月の最終週。読売新聞の夕刊「しあわせ小箱」というコーナーで、4日にわたり、本道さんのお話を素敵な記事にしていただきました。
その取材で本道さんが話していたことのなかから、こぼれ話をひとつ。
「最期の晩餐の食事会で心掛けていることは何ですか?」という質問に対する、本道さんの答えをご紹介したいと思います。
と、その前に。
『最期の晩餐の食事会』について、簡単なご説明を。
熊本県にある藤岡医院で定期的に行っている「最期の晩餐」。
これは、末期がんの方と、そのご家族とが一緒になってご飯を食べるお食事会です。
「さいごのばんさん」と言うと、なかなかインパクトがありますが。
その真意は、末期がんの方々にとって最期となる食事ではなく、病気と決別するため、病気になった今までの自分と決別するためのもの。
末期がんの方の多くは、食べたくても食べられない。食べる意欲さえ湧いてこない。食べられたとしても、家族とは別の食事。
そこで本道さんが、肉・魚、卵や乳製品を使わない野菜だけのビーガン料理をつくり、ご家族と一緒に食べていただくのです。
『家族と一緒にご飯を食べる』
この当たり前のようで、かけがえのないひとときがもたらす作用というのは、とても大きいそうで。
「もう食事もままならないと思っていた自分が、家族と食卓を囲み、皆で同じものを食べることができた。」
こうした喜びや自信は勇気となり、そこから新たな人生を歩む活力となる。
そういう意味で、『今までの自分と決別』し、食をとおして『生きる活力』を取り戻すことを願って始まったのが、「最期の晩餐」です。
さて、話は戻りまして。
そんな最期の晩餐で心掛けていることの問いに対し、本道さんはこう答えました。
「その食事会では、ご飯をほとんど食べられない方もいらっしゃるので、そんな方もいるという事を頭に置いて、目で味わってもらえるように、エネルギーを感じてもらえるようにしています。」
私は、この言葉を聞いて驚きましたよ。
「『食』において、それを味わい感じられるのは、その食べ物を口にし、体に取り入れてこそ。」
ずっとこう思っていたんですけどね。そうした固定概念を、あっさり覆されちゃったのですから。しかも、料理人である本道さんに。
でも同時に、またひとつ腑に落ちました。
『食』というのは、食べることが前提。でも、すべての人が同じように食べられるわけではない。
だから本道さんは、食べなくても同じようなパワーやエネルギーを吸収できるように、五感で感じる料理をしているのでしょう。
食べられなくても目で見たり、見えなくても香りを感じたり、香らなくても触れてみたり、触れなくても調理の音を聴いたり。
料理を前にした際に、何かひとつでも感覚を研ぎ澄ませたら、食べるのと同じだけの力を感じてもらえる料理。
本道さんが、さらさらと流れるように、穏やかな口調で語った言葉には、ものすごく強い想いと意志が込められている気がしたのです。
そうした想いから生まれる料理は、まさに五感を揺さぶるアートであり。
最近本道さんは、料理の味わいに加え、その鮮やかさや大胆さ、繊細さを伴い、「食のアーティスト」と称されることがあるのですが、そう言われる所以、そしてその真髄を垣間見たような気がしました。
さらに本道さんは、こう続けました。
「あとは、不安にさせないこと。」
病気の人は、そうでない人よりも日々不安を感じ、不安のなかで過ごしているように思う。だから、そういう人たちに「大丈夫ですよー」と伝えたい、とのことでした。
「自分の何がいけなくて病気になったのだろうか。今これをしていいのか、これを食べていいのか。」
病気の症状が重くなるほど、どうしても、そういうほうに意識が向いて、不安になってしまうことが多い。
でも本当は、そういう不安を外して自分の気持ちのままに動けばいい。食べたいものを食べればいい。
「すべてアナタのチョイスでOKなんですよー。」ということを、料理や本道さん自身を見ながら、体感してもらいたいそうです。
「誰かにこう言われたから」でははなく、「自分がそうしたいから」。
そうやって一人ひとりが、自分をしっかりともつことに意識を向けてくれたら嬉しい。それが本音なのだと、最後に呟きました。
これが、読売新聞の記事に入りきらなかった、最期の晩餐に関するこぼれ話のひとつ。
新聞を読んでくださった方も、読みそびれた方も、本道さんの溢れ出る気持ちを少しでも受け取っていただけたら幸いです。
トマトやきゅうり、ユリの花、雑穀などを使ったカラフルな料理
2015年2月に行われた「最期の晩餐」食事会の料理の一部