Vol.21本道佳子マネージャー日記
「料理にも意志がある」
2015.05.21
先日、とあるディナー会がありました。その会は、本道さんともう一人の料理家さんが、それぞれ5品ずつぐらいつくるというスタイル。
次々にできあがっていく色とりどりの料理。
その料理が10品以上も横一列に並ぶ姿は、それはもう圧巻でした。
その時に、見ていて不思議というか、面白いなぁと思ったことがありましてね。
通常は、本道さんがメインでお料理をつくることがほとんどなので、2人で分担してつくるスタイルはとても珍しいこと。
お2人それぞれが5品前後ずつつくるわけですから、作業は別々、お皿への盛り付けも各々が行います。
できあがったお料理は私が受け取り、テーブルへと運びます。
お料理の内容や色合い、お皿の色などを気にしながら長テーブルに並べていくので、料理家さんと本道さんのお料理は、混在して置いてある状態になるのです。
そして、ポイントはここ。
最初に料理を手渡された時って、まだお料理が『料理家さんのお料理』、『本道さんのお料理』みたいな雰囲気を醸し出しているように感じたのです。
私がそう思って受け取っているから、ということも、もちろんあるとは思いますけどね。なんとなーく、料理自体が「この人の手から生み出された料理」という気持ちでいるような気がして。
でも、並べて少ししてから、もう一度料理を見た時に気が付きました。料理が乗ったテーブルから、どことなく一体化した雰囲気が漂っていることに。
お料理同士が調和しているというのでしょうか。
それぞれのお料理が、自分の個性を保ちながらも、同時に、大勢の中で社会性も保っているかのように。凛と美しく、手を取り合いながら、食べてくれる人たちをお迎えしていたのです。少なくとも、私にはそう見えました。
そうした一連の様子を見て、ふと思ったのです。
料理にも意志があるのだと。
料理は、つくった人の想いをできる限りそのまま、食べる人へと引き継いでいけるよう、そのエネルギーを自分の中で保とうとしているのかもしれない、と。
本道さんは、大きな声では言いませんし、決して人に強いることはありませんが、こう思っています。
「できあがった料理は、できるだけ早く食べて欲しい。」
なぜなら、料理はできた瞬間が最もエネルギーが高く、時間が経つとともに下がっていってしまうから。
私はこれを、こんなふうに解釈しています。
私たちにとって「言葉」がコミュニケーションツールであるのと同じように、料理人にとっては「料理」がコミュニケーションツール。
話し手と聞き手の間を「言葉」が行き交うように、つくり手と食べ手の間を「料理」が行き交ってこそ成立するもの。
すなわち、目の前にある料理を食べずに置いておくのは、話しかけられているのに無視をしているのと同じことなのだ、と。
だから私は、状況が許す限り、自分の目の前にあるお料理はすぐにいただくようにしているのですが、この「料理の意志」というものを感じたときに、本道さんの言葉をより深く理解できた気がしました。
料理を食べずに放っておくこと。それは、料理へと込めたエネルギーを下げるだけでなく、美味しい状態を保とうとしている料理の意志までをも、ないがしろにしてしまうこと。
だからこそ、できるだけエネルギーが高い状態で皆さんの心身へ取り込んでいただきたい、ということなのでしょう。
ここに、料理人としての立場だけでなく、料理が持つ意志を感じ尊重する、本道さんの温かい目線を見た気がしました。
もちろん、人それぞれの事情がありますし、どうしてもつくってから時間の経った食事を、いただかなければいけないこともあるので、難しく考えすぎることはありません。
でも、ふと気が付いたときに、つくり手の気持ちをできる限り伝えようとしてくれている料理の意志を感じ、感謝しながらいただくだけで、その食卓にはほんのりと温かい光が灯る。そんな気がするのです。
今回、2人の料理家によってつくられた料理は、手を取り合い、見事に融合しながらお客様を待ち、食べてくださったすべてのお客様を笑顔にしていました。
2人の想いを届けることができた料理たちは、どれだけ嬉しかったことでしょう。
凛としたエリンギのソテー
先日のディナー会の料理の数々