恋に効く、仏教 Vol.38
第三十八話
最期の言葉
2018.01.24
少し更新が空いてしまいました。昨年末よりお葬式が非常に多く、
年末年始の準備もあって、
ゆっくり文章を書く余裕がありませんでした。
もちろん時間の余裕はどこかにあったのですが、
心に余裕がなく、間が空いてしまいました。
でも、昨日まで少し遅めの正月休みで、
子供を連れてディズニーに行ってきたので、
心に余裕が出て、原稿に向かう気持ちになりました。
ミッキーの魔法です。
ただ、帰ってからもすぐ訃報があり、
先ほど、お経から帰ってきたところです。
なんで人は死ぬのだろう。
なんで別れねばならぬのだろう。
と、毎回のように感じます。
また、人の最期には様々な姿があり、
いつも考えさせられます。
数年前、檀家さんのお祖母さんが亡くなりました。
亡くなった後、すぐにお宅に伺うと、
最近では珍しく自宅で最期を迎えられたとの事。
さらに、やけに親戚一同が和やかです。
お話を聞くと、
お祖母さんは、自宅で長く寝ていましたが、
いよいよ自分があとわずかだと悟ったのか、
お嫁さんに親戚を皆集めるように頼みます。
近所に住む親戚はすぐに集まり、
お祖母さんの寝る布団を囲みます。
すると、お祖母さんは、ゆっくり起き上がり、
一人一人と握手をして、
相手の顔を見ながら
「ありがとう」
と、言っていったというのです。
一人一人の手を強く握りながら。
そして、最期にお嫁さんの手を強く握り
「あんたには、本当に世話になった。
ありがとう。ありがとう。本当にありがとう。」
と言って笑いました。
皆も笑い、和やかに夜は過ぎました。
次の日の朝、お祖母さんは亡くなっていました。
お嫁さんが、起こしに行くと冷たくなったお祖母さん。
大往生です。
皆和やかに、うれしく、かなしく
最期を送りました。
思い出すたびに、
こんな最期を迎えたいと思います。
また、
名古屋の知り合いのお寺のお祖母さんが
亡くなった時の事もよく思い出します。
90歳を過ぎても、和尚さんと仲睦まじいご夫婦でした。
お寺で、病気で寝ていたお祖母さん。
和尚さんを、ベッドに呼んでお願いをします。
「和尚さん!抱いて!」
和尚さんは、
「あーええよー」
と
お祖母さんを抱きしめます。
するとお祖母さんは
「あーもーええわー」
と、一言言って
次の日、亡くなりました。
微笑ましく、愛らしい最期です。
人は、最期の為に生きる訳ではありません。
でも、最期には、
今までの人生が表れてくるものです。
多くの別れに関わると、本当にそう思います。
どの最期が良くて、どの最期が悪い。
なんて話ではありませんが、
僕は、
こんなお祖母さんたちの様な最期を
多くの皆さんに迎えてもらいたいと思っています。
ただ、
これは、最期だけしっかりとして出来るものではありません。
抱かれて亡くなったお寺のお祖母さんは、
茶道を長くやっており、
お弟子さんに、お茶の作法を厳しく指導していました。
その中で、一番大事に指導されていたのは
茶の十徳。
これは、もともとお茶の効能を説いたものですが、
その最期の
臨終を茶道の教えになぞらえて指導していました。
何事も、最後をきっちりきめると素晴らしい。
でも、最後だけかっちりきめる事は出来ない。
茶道であれば、室内に入り、茶をたてて、、、、
その過程のすべてを懸命に正しく行わなければ、
臨終はきまらない。
目の前の一瞬を生き切らなければだめなのです。
最期の為に、生きているわけではありませんが、
今をいい加減に生きていて
臨終がきまるわけがない。
檀家のお祖母さんは
日々ずっとありがとうの人生でした。
ありがとうを探す人でした。
ありがとうは探せば足元にいくらでもあるのです。
それに気づき、感謝し、笑い過ごしていたからこそ、
皆が和やかに、ありがとうを言う別れだったのです。
なんでもそうです。
結果や、ゴールだけ求めてはいけません。
結果より過程が大事という単純な話でもありませんが、
いい加減な、悪い行いの果てに、
優しい世界は待っていないのです。
優しく素晴らしく和やかに。
人生という最期をきめにいく必要はありませんが、
あなたの日々の
優しさや、あたたかさや、笑顔が
結果、最期を素晴らしくするのです。
僕は、この1月17日で40歳になりました。
長く生きるかどうかわかりません。
この先どうなるかわかりません。
でも、
与えられた命を
生き切ってみたいと思います。
みなさんもぜひ。